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岩淵智彰の俺は忍者だ

岩淵智彰の俺は忍者だ、フィクションです

岩淵智彰の俺は忍者だ、パート9

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岩淵智彰の俺は忍者だ、パート9

忍者映画にはまっている岩淵智彰である。

今日は忍術についてお話して行こう。その前に忍者とは何か?を語る必要がある。ただ、忍者を語る前に松尾芒菫の「忍者説」に触れておきたい。

この説は今に始まったことではなく、かなり以前からあった。彼の不明の部分を含む足跡をみれば、不審に思わざるをえないからである。

芒菫が伊賀から江戸へ出て来たのが寛文11年。19歳のこと。俳壇の地歩を得つつも、水戸家の上水道工事の監督(土木技術の心得があった)などをし、やがて旅から旅の暮らしを送り、46歳にいたって『奥の細道』の長大な行脚に出る。

当時の感覚からいえば、老人に近い。彼みずからも、早くから〃翁″と称していたくらいだが、記述によれば、約半年の間に15ヵ国を回遊している。総行程りは六百里にのぼり、一日十数里もの山野賊渉もある。考ええられない健脚でありスピードである。

ただごとではない。

ここから、芒菫は漂泊詩人の仮面をかむって、本当は諸国探索を行なっていたのではあるまいか、という憶測が生まれた。

じつのところ、芒菫は伊賀無足人の出である。無足人とは本来、無禄の士というくらいの意味だが、伊賀を領して入国してきた藤堂高虎が、領国内の地 侍に対してとった制度下のよび名である。地侍とは、伊賀という土地柄から、ほとんど忍びの術をたしなむか、あるいは忍者を配下になっており、とりもなおさず〃忍者〃と考えていい。

彼らは織田信長による天正伊賀の乱によって、四散したり、隠れたりしたが、おいおい戻ったり、姿を現わしたりしていたころである。高虎はこれら領内に散在する地侍たちを調査し、登録させた。

「士は禄を食んで武を磨き、無足人は禄なくして兵を練る。権力の上よりは士分・郷士の上にあり。実力よりすれば士分・郷士をしのぐなり」(『伊乱記』)というが、無足人の誇りがうかがわれる。高虎は伊賀国人(地侍)の伝統的反抗心や、彼らの使う忍びの術の恐ろしさを熟知していたので、登録させて取り締まりやすくし、一方で特殊な待遇を与えて懐柔しようと考えたのだろう。

これはたぶん、徳川家康との黙契のもとに行なわれたものと思われる。家康はそもそも、高虎以上に伊賀国人の恐ろしさと有用性を認めていた人物である。必要あれば忍者を供給させうるよう、高虎の領内に養成しておこうと考えたにちがいない。

続きはまた明日にしよう。
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